『海軍乙事件を追う』

山本五十六連合艦隊司令長官戦死が海軍甲事件、そして古賀峯一長官以下連合艦隊司令部の遭難事件が乙事件である。

「戦死」ではなく「殉職」と発表された古賀長官の死は、巷間噂されたように捕虜となった長官が自決したためだったのか。

事件当時毎日新聞の記者としてマニラに駐在していた著者は、当初噂の信憑性には懐疑的だったが、戦後になって「古賀長官を見た」という人たちの話を聞くうちに疑念を抱くようになって、取材を始める。

関係者たちの証言から明らかになるのは、海軍上層部の保身による「事なかれ主義」から事件の真相究明がなおざりにされた事実であり、作戦計画書が敵に渡っているかもしれない可能性を直視できなかった上層部の「楽観主義」である。

しかし、この本から伝わってくるのは、当時の日本人全員が共有していた根拠の薄弱な「優越感」である。フィリピンの現地住民を低く見る視線は、決して軍人だけのものではなく、著者の記した言葉の端々にも自ずと滲み出している。時代の限界ということはあるとしても、この本の元となる原稿が書かれた昭和四十八年、少なくともそのときまで著者には無意識にこの感覚が生きていたのだ。

フィリピンでアメリカと戦うとはどういうことなのか。フィリピンとはただの場所なのか。そこは誰の土地なのか。

おそらくもはや「戦前」である現在、日本人は再びこの子どもっぽい感覚に踊らされようとしているように見える。

『明智小五郎回顧談』

昭和20年代に明智小五郎のもとへ回顧談を聞きに行くという話。乱歩を始め戦前期の探偵小説を読み込んできた読者には、かなり面白いはずの一冊。そうでない人には少々わかりにくいかもしれない。何よりネタバレ満載なので、多少なりとも乱歩に興味がある人には先にオリジナルを読んだ方がいいと言いたい。当然と言えば当然なのだが、ここに描かれている明智小五郎や二十面相は、平山雄一の明智であり二十面相である。乱歩ファンの一人ひとりにそれぞれの明智や二十面相がいるのであり、そこに違和感を覚えるのは仕方のないことである。腹を立てたり批判したりするのはお門違いというものだ。ただ、乱歩をまだあまり読んでいない読者には、余計なバイアスのかかった明智小五郎像を見せるのはどうか、という気はする。やはり、この本は探偵小説「マニア」が手にすべき本であって、「趣味」の本なのだ。

生涯最悪の……

私は、自他ともに認める無類の磯辺揚げ好きだが、先週、半世紀にも及ぶこの人生において最も不味い磯辺揚げを口にした。

磯辺揚げの主材料は、チクワ、小麦粉、青のり、油。

これにバリエーションで何か加わるとしてもだ、磯辺揚げの味の振り幅なんてそう大きくはない。

予想を超える美味さもないかわりに不味さもない。のり弁の謎の白身フライの横に、なにげなく当たり前のように存在する。きわめて存在感の薄い食い物。

言い換えれば、磯辺揚げなんてものは不味く作ろうにも限度がある、ということだ。

その限界を易々と越える料理人については、これはこれでひとつの才能かな、と感心すると同時に、私に何か恨みでもあるのか、とふつふつと怒りが沸いてきたのだった。

まず、チクワが輪のままである。縦に切断されていない。まあ、これは流儀みたいなものだから、縦に切らなくたっていいのだが、それでも許されるのは細いチクワの場合だけで、おでんに入れるようなチクワでは駄目だ。これにコロモがつくんだぜ。磯辺揚げに大口開けてかぶりつくなんて聞いたことない。

そして、コロモだが、どうしてチクワの半分までしかついていないのか。おしゃれのつもりなのか、手抜きなのか、そこが今ひとつ判然としないところである。コロモのついていないところは、ただのチクワの素揚げでしかない。チクワの素揚げはチクワを揚げた味がするだけである。

コロモのついている方も、このコロモに問題があって、磯辺揚げの磯辺揚げたる根拠であるところの青のりが異常に少ない。水溶き小麦粉の中へ間違って青のりが落ちてしまったのかというぐらいに少ない。これでは磯辺揚げではなくチクワの天ぷらである。

だが、これらの諸問題を差し置いて何より問題なのは、コロモが固いということである。齧るという表現がぴったりするくらいに固い。元々固かったのが冷えて余計に固くなっている。もはや磯辺揚げのコロモではなく、磯辺揚げの殻である。いつからチクワは甲殻類になったのかという体である。

全国にはまだまだこうした恵まれない磯辺揚げが存在するのだろう。とはいえ、磯辺揚げ救済の声を上げるつもりはない。

しょせん磯辺揚げだからね。