セルパブ小説を読んでみよう 29 藤あさや『宝石の翼 セリエルの空』

文章に表現するのが難しいもの。音楽というのはその代表格ではないでしょうか。総じて芸術作品をそのまま言語化することは不可能事であって、どんな素晴らしい作品でも、というより素晴らしい作品ほど、その素晴らしさを言語によって読者の脳裏に再現することに困難さがつきまとうことになります。

どれだけ言葉を費やそうと、両腕を組み、片方の肩を引いて、目と口元に静かな微笑みを浮かべてこちらに微笑みかけている女性の姿を読者に正しくイメージさせることはできません。でも、ひとこと「モナリザ」と言ってしまえば、容易にその姿を思い浮かべさせることができます。

ある意味、言語では説明できないからこそ名前があるのです。ただそれも送り手と受け手に、その名前で呼ばれる対象についての共通の理解があるから成立するのです。「モナリザ」や「ゲルニカ」なら問題ありませんが、アーシル・ゴーキーの「肝臓は雄鶏のとさか」と聞いて絵を思い浮かべられる人は世界中でも片手ぐらいでしょう。

となると、名前がついているだけではどうにもなりません。ましてや音楽となったら……。十二音技法がと言われても、シェーンベルクがと言われても、知ってはいるけど具体的な音が思い浮かばない。セリエル音楽は名前すら知りませんでした。インターネットの凄いところは、こういうときも検索すれば現物にぶち当たるところです。なるほどね。こういうのですか。

藤あさや『宝石の翼 セリエルの空』。主人公がテルミンでセリエル音楽を奏でながら空を舞う物語。

舞台は第一次世界大戦が終わらない世界。ドイツは英国に爆撃機を送り込んできますが、それを迎え撃つのが主人公たち「英国の奇蹟」と呼ばれる聖歌隊です。彼らが搭乗する、ブーメランのような無尾翼機には、プロペラも推進器もついていません。代わりにわずかな電気信号で風を操るエーテル機関を積んでいます。この物理法則に反した機関を操ることができるのは、へそに宝玉をつけて生まれてきた、声変わり前の少年かケーニヒスベルクの魔女だけです。

少年たちは軍人ではありません。国教会に所属する聖歌隊です。しかし、名のない島に集められた少年たちは、空を飛ぶ自由と引き換えに空を戦場として戦わなければなりません。それでも、少しでも声変わりを遅らせようとしたり、効果はないのに去勢してみたりするほど、空を飛ぶ歓びは彼らを強く魅了しています。

十二歳の「僕」はその中では取り立てて目立つところのないひとりです。「スノウホワイト」と呼ばれ、ときには女装させられて女の子の代わりをさせられてしまうような子ですが、聖歌隊に入る前には母親から「取り替え子」として虐待されていました。しかし、「剣と魔法」と呼ばれるドイツ軍パイロットを撃墜したことから、主人公を取り巻く状況は少しずつ変わっていきます。主人公は聖歌隊の存在に、魔女にまつわる何か疎ましいものが潜んでいるのを感じるようになります。

ワルプルギスの夜、主人公は自分そっくりの魔女の幻を見ます。その魔女は「取り替え子」である自分の対であるのかもしれません。すべてはあらかじめ決定しているとするダンの時間論が正しいなら、彼女は同じ現実に存在しないとしても、可能世界のどれかには存在しているに違いないのです。

そして、変化は周囲だけではなく、主人公自身にも訪れます。それはひとつのモラトリアムの終わり、そして、新しいモラトリアムの始まりでした。

文章に表現するのが難しいものに、スポーツというのもあります。観戦ではなく体感するものとしてのスポーツ。試合のなかで一瞬感じる、自己と世界が融合したような高揚感を、どう表現したものか。体感することでしか味わえない歓喜というのは難しいです。しかし、この小説ではエーテル機関機のコックピットで主人公の感じる歓びが見事に表現されています。結末がしっくりくるのも、この表現が成功しているからこそでしょう。

モラトリアムは永遠に続くものなのか、僚友と再び空でまみえる日は来るのか、いつか続編を読みたいものです。https://www.amazon.co.jp/dp/B07MHB32VT

自作の宣伝です。魔女が出てきます。共通するのはそれだけかな。少年は出てきません。すれっからしがぶつぶつ文句を言う物語です。ついでにお読みください。全部 Kindle Unlimited で読めます。

 

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