佐藤優「学生を戦地に送るには 田辺元『悪魔の京大講義』を読む」を読んでみた。

京都学派の泰斗田辺元が学生に「国のために死ぬ」ことの思想的根拠を与えるべく行った講義『歴史的現実』を、佐藤優が読み解いていく。

田辺は「歴史とは何か」を時間論から解き始め、今はない過去と未だない未来が現在と相互作用するところに見る。

それは絶対であると同時に自由であり、無限の中心を持つ1つの円として捉えられる。

また、相互作用する関係は個と種と類の概念にも敷延される。

種は個に先行し個を制約するが、個の否定が行き過ぎれば種は存続できなくなる。よって種は個の意志の集合的なものとなり、種の目的と個の目的は一致する。さらに種を超え出る個が他の種の個と相互作用し類を生成させる。個人は種族の中に生じ、種族は人類との相関により国家となる。

ここまでの論理に破綻はないと佐藤は見ている。しかし、田辺にはこの先に飛躍があり、それは「国のために死ぬ」ことに正当性を与えるためだという。

「個人は種族を媒介にしてその中に死ぬ事によって却て生きる。その限り個人がなし得る所は種族の為に死ぬ事である」

そして、無限の中心に喩えられた歴史や世界観は「歴史の終焉」へと統合され、個は与えられた目的の犠牲となることを強いられる。

「具体的に言えば歴史に於て個人が国家を通して人類的な立場に永遠なるものを建設すべく身を捧げる事が生死を超える事である。自ら進んで自由に死ぬ事によって死を超越する事の外に、死を超える道は考えられない」

これを詐欺とも洗脳とも言うことはできる。だが、論理の飛躍は田辺の過ちでしかない。

問題とすべきは個と種と類の相互作用の先に戦争を正当化する論理の構築は可能なのかということである。

残念ながら、それを否定できる根拠はない。むしろ、学生と言わず一般市民に銃を取らせることを根拠づける言説は絶対に存在するといえる。

と同時に戦争参加を拒否しうる論理も存在しうる。よって、現実における個の自由は、論理が順次展開され現実として生成されていく過程での「選択」として表現されることになる。

そして、個の限界は「選択」を過たせるかもしれず、あるいは巧まずして望ましい未来を選ばせることになるかもしれない。言い換えれば個の限界が未来の非決定性を保証しているということである。

 

田辺元について考えるべきもうひとつの点。

なぜ「死ぬ」ことを求めるのか。

ナチスドイツのように生存圏を確保するための戦いなら「死ぬ」ことを求めること自体矛盾である。

戦争の目的は「殺す」ことで「死ぬ」ことではあるまい。

これを武士道にも見られる日本的心性、美学というのならば、この国はよくよく戦争に向いていない国である。

アーカム・アサイラム

ごめん、ゲームじゃないんだ。

アメコミはMARBELよりDCのほうが好きだ。

そして、スーパーマンよりバットマンである。

「DARK KNIGHT」もいいんだけど、「ARKHAM ASYLUM」の悪夢を見せられているような雰囲気。

このダークさが理想。

乾石智子『滅びの鐘』

著者の描く世界が独自のものでありながらリアリティがあるのは、細密画のように描き込まれた鳥や植物や鉱石などのディテールのためだけではない。

登場人物が自然にその世界のルールに従って行動するという点。

見方を変えれば、人物の中に活きている価値観として表現できているからこそ、リアルに感じられるのだろう。

本作では支配民族と差別弾圧される民族との対立が描かれるが、よくある反逆や革命の物語にはならないから、派手な展開を期待する向きには面白くないかもしれない。

とはいえ、一方の主人公であるロベランが内なる嗜虐性にとらわれていく様には鬼気迫るものがある。

最終的に作者の性善的人間観へと物語は収束していくので後味が悪くなることはなかった。

 

ストレスと時間をお金に換えること

今日は、日本人は働くことを「ストレスと時間をお金に換えること」と考えている、という話を聞いた。

また、自分の会社のことを「好きだ」と答える人は40%しかいない、という話である。

ふむ、おれは典型的日本人だな。

「働いたら負け」だとは思わないが、「働かなくてすむなら勝ち」だとは思っている。

どうして日本人はこうなってしまったのか、という問いの立て方はきっと間違っているだろう。

日本人というのは元々こうなんじゃないのか。

よく、日本人は時間に正確だって言うけど、そんなの明治維新以降の話で、それまでの日本人は外国人から時間にルーズだって散々言われていた。

時間に厳しくなったのは明治政府による強制であって、それ以来ずっと日本人はストレスに感じているんじゃないか。

今年は明治維新から150年です、という話も今日は出ていた。

つまり、僕らは本質では怠け者なのに、働かないと生きていけないという強迫観念にかられて1世紀半も生きてきたということだ。

そういう無理は社会的病理となってどこかに出てくるにちがいなく、ニートなんてのはむしろ健全な先祖返りでしかないのかもしれない。

アクセラレーション・ブースト漏洩の件

厳秘事項であった「アクセラレーション・ブースト」の情報が漏洩した件について、今日は組織中央の執行委員から査問を受けた。

私の場合、誰かに漏らすどころか、「A/B」のことなどすっかり失念していたぐらいなのだが、委員にはなかなか信用してもらえなかった。

漏洩ルートとしては私を含めて三本ぐらいしか考えられないとのことで、実際まだ疑いは晴れていないようである。

もっとも、ネットに上がっている情報を見る限りではまだ、「A/B」について、そういったものがあるらしいという程度のことしか出回っていないようだ。

幸いなことに、四年前の「A/B」の実証実験については誰も言っていない。

おそらくあの実験の失敗のことはまだ漏れていないのだろう。

あれのせいで第三次侵Mが頓挫し、「A/B」抜きの第四次が開始されて久しい。

もはや誰も「A/B」になど見向きもしないと思っていたが……。

結局、上層部がSとその仲間だけに責任を押しつける形で収拾を図ったそのツケが、今回の漏洩事件なのではないか。

委員が帰ったあと、RとOに連絡を取ってみたが繋がらなかった。

私にはまだ自覚症状はない。すべての被験者に同じ結果が訪れるとは限るまい。

Twitterを利用して作品を宣伝することに効果はあるか?

「小説家になろう」に投稿している自作品をTwitterで宣伝している。

何もしていなかったときより、pvもユニークも増えているし、部分別の数にも違いが見られる。

そりゃ、泡沫作家たる綾瀬文蔵ですから、増加したってたかが知れているのだが、今日何げなく読んでいた「なろう」のエッセイに、Twitterを利用して宣伝をしても効果はないというようなことが書かれていた。

その根拠というのが、ツイートに対してどのくらいのリアクションがあったのかということは「アクテビティ機能」を通じて確認できるでしょ、ということだった。

ツイートのエンゲージメントにおいて、「ツイート内のリンクが何回クリックされたか」をインプレッションの総数と比較すれば微々たるものにすぎないというのである。

たしかにそうなのだ。

いつもエンゲージメントを見て、なんだ、これっぽっちしか読みに行ってくれてないんだ、とは思っていたのである。

が、他人から言われると素直にうなずけない天邪鬼なので、ちょっと考えてみた。

今、Twitterで綾瀬文蔵のプロフィール下に固定されているツイートのインプレッションは4,289回、ツイート内のリンクをクリックした回数は3回である。

なんと、0.07%! 少な!

レスポンス率の高いツイートでも2,296回に対して8回だった。およそ0.3%である。一般的な感覚としてとても多いとは言えない数値だ。

が、しかし、だ。

これを少ないと言ってしまうのは、仕事でDMを打ったり、折込チラシを入れたりしたことがないからだね。

折込チラシの反響目安は、0.01~0.3%程度と言われている。つまり、チラシ10,000枚で1件から30件なのだよ。

たかが1%だって夢みたいな数字なんだ。1%もレスポンスが期待できるのなら、誰も広告に悩んだりはしない。

でも、「なろう」の小説なんてタダじゃん、という反論はあるだろう。タダなんだから、もっと反応があってもいいはずだ、ということだね。

ごもっともではあるのだけれど、タダでも「時間」は消費するのだということを考慮に入れてほしい。読む人は自分の時間を作者に提供しているのだと言ってもいい。

読む人は自分の時間と作品を天秤にかけて見合うかどうか判断しているのであって、決してノーリスクの選択なんかではない。

しかも、チラシを数千枚作って新聞に折り込む費用を考えてみてほしい。Twitterはたかが140字、しかも発信するのはタダなんだぜ。

0.001%でもレスポンスがあれば十分ではないですか。世の中そんなに甘いものではないのです。

こんにちは、世界の皆様。綾瀬文蔵でございます。

はじめまして。

綾瀬文蔵と申します。

深夜に生きています。