『木島日記 もどき開口』

どうしてそうなったのか委細は知らないが、「木島日記」は「北神伝綺」の、あるいは折口信夫-木島平八郎の組み合わせは柳田国男-兵頭北神の組み合わせの「もどき」であったはずだ。

本来ひとつであったものが、いつの間にか共通点を捨象し、差異のみを拡大させて、さらには時代を遡り小泉八雲-会津八一という変奏まで派生させながら、戦前の昭和を舞台として近代と民族の古層との相克を描いてきた。

現実とは、多様な力がそのときの状況に応じて衝突し、合成したところに現れる現象である。

それを観察する諸視座もまた現象の部分をなすのであるから、現実は多元的多層的なものである。

歴史はあえて現実を特定の視座から固定しようとする行為であり、そこには自ずと、隠された秘史や、顧みられなかった稗史、ありえなかった偽史、または物語が、生ずる。

そのとき、それらもまた、それぞれの視線から語られたものである。

そこにあえて民族の古層だとか集合無意識だとか枠組を持ち込めば、シクロフスキーやプロップの物語要素だのが出てくるが、それは多元的現実を二重に弁別することに他ならない。

この二重の剔抉をこそ「仕分け」と作者は言うのであり、「仕分け」られたものを「ミュー」と呼ぼうが「ニライカナイ」と呼ぼうが「常世」と呼ぼうが、そこにあるはずの差異を無視するならば、最終的に残るのは言語構造かもしくは脳構造の要請という答えでしかない。

世界の在り様に適合した大脳進化の結果が、言語機能であるならば、すべては人間が世界を持った初めからすでに語られてしまっていたのだ。

『海軍乙事件を追う』

山本五十六連合艦隊司令長官戦死が海軍甲事件、そして古賀峯一長官以下連合艦隊司令部の遭難事件が乙事件である。

「戦死」ではなく「殉職」と発表された古賀長官の死は、巷間噂されたように捕虜となった長官が自決したためだったのか。

事件当時毎日新聞の記者としてマニラに駐在していた著者は、当初噂の信憑性には懐疑的だったが、戦後になって「古賀長官を見た」という人たちの話を聞くうちに疑念を抱くようになって、取材を始める。

関係者たちの証言から明らかになるのは、海軍上層部の保身による「事なかれ主義」から事件の真相究明がなおざりにされた事実であり、作戦計画書が敵に渡っているかもしれない可能性を直視できなかった上層部の「楽観主義」である。

しかし、この本から伝わってくるのは、当時の日本人全員が共有していた根拠の薄弱な「優越感」である。フィリピンの現地住民を低く見る視線は、決して軍人だけのものではなく、著者の記した言葉の端々にも自ずと滲み出している。時代の限界ということはあるとしても、この本の元となる原稿が書かれた昭和四十八年、少なくともそのときまで著者には無意識にこの感覚が生きていたのだ。

フィリピンでアメリカと戦うとはどういうことなのか。フィリピンとはただの場所なのか。そこは誰の土地なのか。

おそらくもはや「戦前」である現在、日本人は再びこの子どもっぽい感覚に踊らされようとしているように見える。

『明智小五郎回顧談』

昭和20年代に明智小五郎のもとへ回顧談を聞きに行くという話。乱歩を始め戦前期の探偵小説を読み込んできた読者には、かなり面白いはずの一冊。そうでない人には少々わかりにくいかもしれない。何よりネタバレ満載なので、多少なりとも乱歩に興味がある人には先にオリジナルを読んだ方がいいと言いたい。当然と言えば当然なのだが、ここに描かれている明智小五郎や二十面相は、平山雄一の明智であり二十面相である。乱歩ファンの一人ひとりにそれぞれの明智や二十面相がいるのであり、そこに違和感を覚えるのは仕方のないことである。腹を立てたり批判したりするのはお門違いというものだ。ただ、乱歩をまだあまり読んでいない読者には、余計なバイアスのかかった明智小五郎像を見せるのはどうか、という気はする。やはり、この本は探偵小説「マニア」が手にすべき本であって、「趣味」の本なのだ。

スチームパンク!

スチームパンクのコミック、読みました。

「レディ・メカニカ」シリーズの1作目。”Mystery of the Mechanical Corpse”
「機械仕掛けの死体の謎」とでも訳せばいいのかな。

ストーリーとしてはそんなに風呂敷広げてないけど、設定は結構細かく決めているようだ。
もっとも、ガジェットを見ているだけでも楽しい。

kindle unlimited で読めるのも嬉しい。

佐藤優「学生を戦地に送るには 田辺元『悪魔の京大講義』を読む」を読んでみた。

京都学派の泰斗田辺元が学生に「国のために死ぬ」ことの思想的根拠を与えるべく行った講義『歴史的現実』を、佐藤優が読み解いていく。

田辺は「歴史とは何か」を時間論から解き始め、今はない過去と未だない未来が現在と相互作用するところに見る。

それは絶対であると同時に自由であり、無限の中心を持つ1つの円として捉えられる。

また、相互作用する関係は個と種と類の概念にも敷延される。

種は個に先行し個を制約するが、個の否定が行き過ぎれば種は存続できなくなる。よって種は個の意志の集合的なものとなり、種の目的と個の目的は一致する。さらに種を超え出る個が他の種の個と相互作用し類を生成させる。個人は種族の中に生じ、種族は人類との相関により国家となる。

ここまでの論理に破綻はないと佐藤は見ている。しかし、田辺にはこの先に飛躍があり、それは「国のために死ぬ」ことに正当性を与えるためだという。

「個人は種族を媒介にしてその中に死ぬ事によって却て生きる。その限り個人がなし得る所は種族の為に死ぬ事である」

そして、無限の中心に喩えられた歴史や世界観は「歴史の終焉」へと統合され、個は与えられた目的の犠牲となることを強いられる。

「具体的に言えば歴史に於て個人が国家を通して人類的な立場に永遠なるものを建設すべく身を捧げる事が生死を超える事である。自ら進んで自由に死ぬ事によって死を超越する事の外に、死を超える道は考えられない」

これを詐欺とも洗脳とも言うことはできる。だが、論理の飛躍は田辺の過ちでしかない。

問題とすべきは個と種と類の相互作用の先に戦争を正当化する論理の構築は可能なのかということである。

残念ながら、それを否定できる根拠はない。むしろ、学生と言わず一般市民に銃を取らせることを根拠づける言説は絶対に存在するといえる。

と同時に戦争参加を拒否しうる論理も存在しうる。よって、現実における個の自由は、論理が順次展開され現実として生成されていく過程での「選択」として表現されることになる。

そして、個の限界は「選択」を過たせるかもしれず、あるいは巧まずして望ましい未来を選ばせることになるかもしれない。言い換えれば個の限界が未来の非決定性を保証しているということである。

 

田辺元について考えるべきもうひとつの点。

なぜ「死ぬ」ことを求めるのか。

ナチスドイツのように生存圏を確保するための戦いなら「死ぬ」ことを求めること自体矛盾である。

戦争の目的は「殺す」ことで「死ぬ」ことではあるまい。

これを武士道にも見られる日本的心性、美学というのならば、この国はよくよく戦争に向いていない国である。

乾石智子『滅びの鐘』

著者の描く世界が独自のものでありながらリアリティがあるのは、細密画のように描き込まれた鳥や植物や鉱石などのディテールのためだけではない。

登場人物が自然にその世界のルールに従って行動するという点。

見方を変えれば、人物の中に活きている価値観として表現できているからこそ、リアルに感じられるのだろう。

本作では支配民族と差別弾圧される民族との対立が描かれるが、よくある反逆や革命の物語にはならないから、派手な展開を期待する向きには面白くないかもしれない。

とはいえ、一方の主人公であるロベランが内なる嗜虐性にとらわれていく様には鬼気迫るものがある。

最終的に作者の性善的人間観へと物語は収束していくので後味が悪くなることはなかった。