映画『狂武蔵』

坂口拓主演の「狂武蔵」観てきました。

全編90分のうち77分をワンシーンワンカットの殺陣が占めるという常識外れの映画です。

こういう著しくバランスを欠いたものが実は好きだったりします。

「黒死館」とか「ドグラマグラ」とか好きなのも、ヘンリ・ミラーやセリーヌが好きなのも、エリック・ドルフィ、グレン・グールド、裸のラリーズにハマってたのも、何かが過剰なるがゆえあるいは欠落しているがゆえ。

何度か生まれ変わってきたうちのどこかで徒然草の日野資朝卿だったことがあるのかもしれません。

冗談はさておき。

この77分に及ぶ殺陣は初めから企画されていたものではありません。紆余曲折の結果として、そういう形で撮影されたものが残ったのです(詳しい経緯は坂口拓さんのYouTubeで見られます)。

そうならざるをえなかった、というのともちがいます。この世に存在しなかった可能性の方がむしろ高い。撮られたこと自体、奇跡とまで言わなくてもとんでもない偶然の賜物なのです。更には、その映像が10年近い年月を経て一本の映画に仕上げられ公開されたことに人の世の不思議を感じざるをえません。

とはいえ、観に行くにあたっては不安もありました。

この手の過剰さは大抵ひとの許容範囲を超え出ているものです。思い出されるのは「死霊の盆踊り」ですね。初夜の晩に殺された花嫁の霊だの、火炙りになったネイティブ・アメリカンの娘の霊だのの乳振りダンスを延々と観せられる苦痛。77分の殺陣シーンも同じようなものかもしれないと覚悟して映画館へ向かったのでしたが、それは杞憂でした。

77分を通して振られた殺陣があるわけではなく、大雑把な場所移動と、それぞれの場所で囲むのか、直線的に斬り抜けるのかという段取りの設定と、個々の斬られ役との間の型だけが決まっているようでした。

それぞれの場所において一連のシークェンスが繰り返されるのですが、シークェンスの中は、斬りかかる順序の違いであったり、奪った刀をどう使うかであったり、その時々に変化していきます。

ただ、このラヴェルの「ボレロ」のような反復において武蔵/坂口拓が疲労消耗していくのは演技ではない不可逆的な変化なのです。腕が上がらなくなり、足がもつれ、時折入る顔のアップには自分が何をしているのか困惑しているような表情さえ見えてきます。

気がつけば77分はあっという間でした。映画のラストは今現在の坂口拓の殺陣。カット割りもされてるし、速度、完成度においても完全な殺陣シーンです。しかし、このアクションシーンはかく作られるべきという映像と比べても、いろいろと不備な状況で撮らざるをえなかった77分は、決して見劣りするものでありません。おそらく人が意図してできない領域に入っているからでしょう。

近くに上映している映画館があるならぜひ観るべき一作。

劉 慈欣『三体』を読んで

話は1967年に始まる。日本ではグループサウンズがブームとなり、第2次佐藤内閣が発足し、高度経済成長期の真っ只中であるが、中国では、50年代の大躍進政策で失敗し国家主席を辞任していた毛沢東の権力奪還の手段として始まった文化大革命が、そのピークを迎えていた。

主要人物のひとり葉文潔の父親は理論物理学者で、反動的学術権威として紅衛兵たちに吊し上げられる。文潔の妹は過激な紅衛兵となって積極的に父親の罪を暴いていたのであり、同じ物理学者の母親はとうに自己批判しており、批判集会で夫を反革命分子として非難する。しかし、頑なに自己批判を拒んだ父親は、4人の少女たちにベルトで殴られて死亡する。その光景を目の当たりにしていた文潔は人類に深く絶望する。

――人類に絶望? そうなの? それは「人類」なの?

いやいや、それを突き詰めてはいけない。そして、天安門事件についてはまったく触れられていない(ただ、作中はっきり明記はされていないのだが、経過年数を数えていくと1989年に”あること”が起きる)。

2000年代の亡命中国作家たちは文革については語りにくいようなことを言っていたが、今はそれほどでもないのだろうか。六四天安門事件は依然としてタブーらしいが、それは禁じられているというだけではなくて、中国人に語る必要がなくなってしまったということもあるのではないかという気が最近している。

1986年に胡耀邦が百花斉放・百家争鳴と言ってから中国でもマルクス以外の西洋哲学の「批判的」受容ということがあったようで、ニューアカブームの余熱冷めやらぬ日本の大学で、僕はホワイトヘッドとかフォイエルバッハといった名が中国語で書かれている論文を読まされたりしていた。それで中国の民主化というと、僕はどうしても「大学でホワイトヘッドなんかの研究をしている人がいる」ってことだと考えてしまう。だから、天安門のニュースを見たときに頭に浮かんだのは、文革よろしくホワイトヘッドの研究者が三角帽子を被せられて首から「私は懷海德を読みました」という板っきれを提げて小突かれている姿だった。

つまり、日本人の僕でさえそんなイメージを思い浮かべたのだから、『三体』の冒頭というのは文革の実態というよりもそのステロタイプでしかないとも考えられるのだが、まあ、それはそれとして、あの89年にそのまま中国が民主化していたらどうなのよ、という疑問がこないだからずっと気になっているところなのだ。

僕らはあのとき中国の民主化を「たぶん」歓迎していた。でも、それって阿呆らしい優越感の反映だったかもしれない。僕らは彼らを「無知で貧しい10億の民」だと考え、下に見ていたのではないか。資本主義陣営に入ってきた彼らを馬鹿にしてあごで使うつもりだったのではないか。少なくとも当時の高度資本主義国家のわが国が東南アジア諸国とどういう関係を築いていたかを思い出せば、あながちこの想像が的外れでもないことは同意してもらえるんじゃないかと思う。

この日本とアジアの国の関係については、84年の「吉本埴谷コムデギャルソン論争」も僕は気にかかるのだ。この笑ってしまうような論争は、あの「an an」に吉本隆明がコムデギャルソンの服を着せられて載ったことに対して、埴谷雄高が「それを見たらタイの青年は悪魔と思うだろう」とイチャモンをつけて始まった論争だが、このときの吉本の反論は「先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子賃労働者は、こんなファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど、豊かになった」のだというものだった。もちろん、日本の賃労働者が「豊かになった」前提には「タイ」の賃労働者の労働があり、その賃金は日本の労働者と比較して相対的に低い。この同時的差異に立脚していたのが埴谷だとすれば、吉本はかつての「日本」の労働者の状況に「タイ」の労働者が到達したのだという通時的運動を見ていたのだと思う。

この「タイ」のところに「中国」も入れていたというのが当時の日本であり世界だ。それは民主化の如何を問わない。あれから30年経って、さて現在あの国に暮らしているのは「賢くて金持ちの13億人」である。GDPはとっくのとうに日本を抜いて世界2位。民主化しなかったのにこの「ありさま」だ。

民主化していたらいったいどうなっていたのだろう? 変わっていただろうか。変わっていたとすればどう変わっていたのだ? 現在のタイやフィリピンと同じ立ち位置であると想像してみよう。現在の中国の人たちはそれを良しとするだろうか。

間違いないのは、この30年で中国人が絶対的不可逆的に「幸福」になったということだ。中級ないし下級の女子賃労働者がファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど豊かになったという事実だ。日本人が「天安門」なんて口にしなくても生きていけるのと同様、中国人も「天安門」をネットで検索する必要なんてないのだ。言い換えればそれは「歴史」になってしまったのだ。(ああ、ようやく『三体』に戻ってこられた。読んだ人にはわかるよね?)。

だから、天安門を問題にしたり、2019年香港民主化デモを考えるとき、僕らは何を守ろう/獲得しようとしているのかを、あらためて自らに問い直すべきなのだ。それは「自由」なのか。その「自由」とはどんなものなのか。「公共」と「自由」の線引きをどこでするのか。それは自分が決めることなのか。それとも誰かが決めることなのか(「自由」なのに?)。

有限な個人はより長期的に存在する社会に優先しうるか。時間の長さが問題なら、普遍なる神には従うべきではないのか。個が無力であるときは集合体でしか語れないのか。

『三体』の終わりに蝗が登場するのと『高い城の男』の『イナゴ身重く横たわる』には何の関連もないのだろうが、ふと読み返してみたくなって本棚を探しても見当たらない。段ボールに入れてしまってしまったらしい。段ボールの山をひっくり返すのもアレなので、思わずkindle本で購入してしまった僕なのだ。

『木島日記 もどき開口』

どうしてそうなったのか委細は知らないが、「木島日記」は「北神伝綺」の、あるいは折口信夫-木島平八郎の組み合わせは柳田国男-兵頭北神の組み合わせの「もどき」であったはずだ。

本来ひとつであったものが、いつの間にか共通点を捨象し、差異のみを拡大させて、さらには時代を遡り小泉八雲-会津八一という変奏まで派生させながら、戦前の昭和を舞台として近代と民族の古層との相克を描いてきた。

現実とは、多様な力がそのときの状況に応じて衝突し、合成したところに現れる現象である。

それを観察する諸視座もまた現象の部分をなすのであるから、現実は多元的多層的なものである。

歴史はあえて現実を特定の視座から固定しようとする行為であり、そこには自ずと、隠された秘史や、顧みられなかった稗史、ありえなかった偽史、または物語が、生ずる。

そのとき、それらもまた、それぞれの視線から語られたものである。

そこにあえて民族の古層だとか集合無意識だとか枠組を持ち込めば、シクロフスキーやプロップの物語要素だのが出てくるが、それは多元的現実を二重に弁別することに他ならない。

この二重の剔抉をこそ「仕分け」と作者は言うのであり、「仕分け」られたものを「ミュー」と呼ぼうが「ニライカナイ」と呼ぼうが「常世」と呼ぼうが、そこにあるはずの差異を無視するならば、最終的に残るのは言語構造かもしくは脳構造の要請という答えでしかない。

世界の在り様に適合した大脳進化の結果が、言語機能であるならば、すべては人間が世界を持った初めからすでに語られてしまっていたのだ。

生涯最悪の……

私は、自他ともに認める無類の磯辺揚げ好きだが、先週、半世紀にも及ぶこの人生において最も不味い磯辺揚げを口にした。

磯辺揚げの主材料は、チクワ、小麦粉、青のり、油。

これにバリエーションで何か加わるとしてもだ、磯辺揚げの味の振り幅なんてそう大きくはない。

予想を超える美味さもないかわりに不味さもない。のり弁の謎の白身フライの横に、なにげなく当たり前のように存在する。きわめて存在感の薄い食い物。

言い換えれば、磯辺揚げなんてものは不味く作ろうにも限度がある、ということだ。

その限界を易々と越える料理人については、これはこれでひとつの才能かな、と感心すると同時に、私に何か恨みでもあるのか、とふつふつと怒りが沸いてきたのだった。

まず、チクワが輪のままである。縦に切断されていない。まあ、これは流儀みたいなものだから、縦に切らなくたっていいのだが、それでも許されるのは細いチクワの場合だけで、おでんに入れるようなチクワでは駄目だ。これにコロモがつくんだぜ。磯辺揚げに大口開けてかぶりつくなんて聞いたことない。

そして、コロモだが、どうしてチクワの半分までしかついていないのか。おしゃれのつもりなのか、手抜きなのか、そこが今ひとつ判然としないところである。コロモのついていないところは、ただのチクワの素揚げでしかない。チクワの素揚げはチクワを揚げた味がするだけである。

コロモのついている方も、このコロモに問題があって、磯辺揚げの磯辺揚げたる根拠であるところの青のりが異常に少ない。水溶き小麦粉の中へ間違って青のりが落ちてしまったのかというぐらいに少ない。これでは磯辺揚げではなくチクワの天ぷらである。

だが、これらの諸問題を差し置いて何より問題なのは、コロモが固いということである。齧るという表現がぴったりするくらいに固い。元々固かったのが冷えて余計に固くなっている。もはや磯辺揚げのコロモではなく、磯辺揚げの殻である。いつからチクワは甲殻類になったのかという体である。

全国にはまだまだこうした恵まれない磯辺揚げが存在するのだろう。とはいえ、磯辺揚げ救済の声を上げるつもりはない。

しょせん磯辺揚げだからね。

His performances are also slightly parts of the latest Japanese culture.

Recently, TABOO LABEL, operated by Naruyoshi Kikuchi, held a music event “Great Holiday”. In this event, Naruyoshi Kikuchi performed in four bands, pepe tormento azucarar, dC/prG, JAZZ DOMMUNISTERS, and SPANK HAPPY. They are quite different from each other, but I cannot say which group is best for him. Their performances were so nice that I was moved.

スチームパンク!

スチームパンクのコミック、読みました。

「レディ・メカニカ」シリーズの1作目。”Mystery of the Mechanical Corpse”
「機械仕掛けの死体の謎」とでも訳せばいいのかな。

ストーリーとしてはそんなに風呂敷広げてないけど、設定は結構細かく決めているようだ。
もっとも、ガジェットを見ているだけでも楽しい。

kindle unlimited で読めるのも嬉しい。

May the plastic pack be with you.

先日、山口ちはるプロデュース「ビニール袋ソムリエ」を見てきた。

これが、あの「小林光地獄」のリメイクなのかという出色の出来。

「あなたとコンビニ」というコピーが、これほど重く深く口にされたことがかつてあったろうか。

芝居を見終えた後も、耳にこだまするファミマの入店音。

そして、いつか僕はきっとファミリーマートの店頭で不意に思い出して泣いてしまうのだろう。

近所に住んでいる人とファミマの社長は絶対に見に行くべき。

http://yamaguchiproduce.wixsite.com/mysite/blank-7

マカロニウエスタンを見た日

高校生のころ、あまりに安いんでハンバーグは猫肉だという噂の立った洋食屋へ行ったら、メニューに「マカロニインディアン」てのがあった。
マカロニウエスタンからの連想でイタリア風のネイティブアメリカン料理だろうかと思って注文したら、マカロニをカレー粉で炒めたのが出てきて愕然とした覚えがある。

ああ、そうか、インディアンは本来そっちか、と納得したものの、それならマカロニウエスタンは西部劇風伊映画だよなあ、と思った。

もっとも、イタリア製西部劇でも西部劇風イタリア映画でも大した違いはないだろう。
だいたい、マカロニウエスタンの嚆矢とされる「荒野の用心棒」にしてからが黒澤明の「用心棒」のパクリだったわけで、そうなるとイタリアとアメリカのみならず日本までごちゃ混ぜになっていることになる。
じゃあ、それが悪いかというと、そんなことは全然ないのだ。
むしろ、全編をムラなく覆っているインチキ臭さがマカロニウエスタンの魅力だ。

で、何げなく昼間テレビをつけたら、これをやっていたので思わず見てしまった。

ジュリアーノ・ジェンマとリー・ヴァン・クリーフ。
このリー・ヴァン・クリーフがすごく良い。
とてもよくできたストーリーだが、敵役のガンマンをヴァン・クリーフがやっていなかったら、さてどうなっていたことか。さすがリヴォルバー・オセロットである。

作中、ガンマン十戒というのが出てくる。

教訓の一 決して他人にものを頼むな。
教訓の二 決して他人を信用するな。
教訓の三 決して銃と標的の間に立つな。
教訓の四 パンチは弾と同じだ。最初の一発で勝負が決まる。
教訓の五 傷を負わせたら殺せ。見逃せば自分が殺される。
教訓の六 危険な時ほどよく狙え。
教訓の七 縄を解く前には武器を取り上げろ。
教訓の八 相手には必要な弾しか渡すな。
教訓の九 挑戦されたら逃げるな。全てを失う事になる。
教訓の十 皆殺しにするまで止めるな。

これ、どこかで使ってやろうと思う。

『ライズ・オブ・シードラゴン 謎の鉄の爪』観た。

ツイ・ハーク監督のディー判事物の2作目。と言っても、アンディ・ラウ主演の1作目は見てないんだけどさ。

けっこう面白い話だった。ただ、海の怪物は余計な気がする。あれ、いない方が面白くないかな。

映像の美しさ、迫力を売りにしているのはたしかなので、海の怪物はこの映画のキモですらあるのだろうが、それでもなあ、ワザとっぽいというか、「パイレーツ・オブ・カリビアン」風のアクションシーンはそんなに盛り上がれない。

キャラは武則天が効いている。

それにしても、アンジェラ・ベイビーはきれいだ。

2作目がこれなら、1作目はもっと面白いんだろう。期待。