KDPをやってみよう(3)

KDPをやってみることにはしたものの、何を電子書籍化するかというのが悩みどころ。

「小説家になろう」とちがって、読む方はタダじゃないからね。
値段をいくらにするかということもあるけれど、100円だっておカネを取るならそれなりの内容は必要だ。

「小説家になろう」を軽く見ているわけじゃない。
ただ、有料であることで読み手に犠牲を強いているのはまちがいない。 東京との最低時給がいまは958円だから、100円の小説を読むということは、6分15秒くらいの労働と交換することになる。

ねえ、あなた、これから6分間、封筒貼りの内職をしろって言われて、その代償が僕の小説なんだよ。
どうするよ?
僕としては最低限、あなたに殴られないだけの作品を提供するほかないわけで。

質の問題は、じつはもうひとつある。
「小説家になろう」のテンプレってどうなのかって話。
「小説家になろう」のなかで沢山の人に読んでもらい、さらには書籍化を狙おうとするなら、たしかにテンプレというのは重要だと思う。

テンプレは何も「小説家になろう」に限られる話ではないのだ。
たとえばアメリカの戦前のパルプ雑誌「ブラックマスク」なんかを見ればいい。
そこに載っているハードボイルド小説は、明らかに読者が求めている「テンプレ」に沿って書かれている。
いわゆるパルプ作家がオリジナリティなんか無視して、タフガイ探偵とギャングとブロンド美女の物語を量産していたわけだ。

売れる物を作るには買い手の需要に合わせなくちゃ――というだけのこと。
何のまちがいもない。非難されるいわれもない。

ただ、こちらはインディーズなのですよ。
地方の造り酒屋さんみたいなもんのわけですよ。

売れるに越したことはないけど、ドーンと売れることなんて期待していない。

自分の書きたいことを書きたいように書く。
あとは読む側に任せるのみ。
面白そうだと思うなら買ってくれるだろうし、読んで好みに合うなら次作も購入してくれるだろう。

それでいいんじゃないかと思う。

というわけで「小説家になろう」に3編投稿した『堕剣士キロク』というファンタジー物の中短編シリーズを電子書籍に上げることにした。

皆が面白いとは言わないだろうが、200人にひとりくらいは楽しんでくれるんじゃないか。楽しんでくれるといいなあ……である。

KDPをやってみよう(2)

治ったと思っていたのは間違いだったようだ。
今年は久しぶりにひどい花粉症である。

まだ「花粉症」という言葉がない頃から春先にはくしゃみと鼻水が止まらなくて、耳鼻咽喉科に行けば「急性蓄膿症」と言われ、中学の教師には授業中にくしゃみをしてブチ切れられ、入試に行っても周囲をはばかって鼻がかめず苦しい思いをした。

花粉症の人間が公民権を得たのはついこの間というか、昔はこんなに花粉症の人はいなかった。

だからさ、僕は花粉症なんて本当は存在しなくて、僕のはあくまでも季節性の蓄膿症で、世間の皆さんのは集団ヒステリーなんじゃないかと疑っている。

さて、花粉症に苦しんではいるものの、KDP熱のほうはべつに冷めてはいない。
うちの kindle が呼んでいるのである。はるかなる kindle の呼び声、なのだよ。

電子出版はなにもKDPに限ったもんじゃないわけだが、やっぱりね、kindle を持っているんだもの、あえて楽天を選ぶ理由はないでしょ。
周囲を見回しても、電子書籍リーダーを持っている人は皆んな kindle なんだよね。kobo は本屋さんの店頭でしか見たことがない。
というわけで、KDP一択なのだけれど、まずはネタがなくちゃ始まらない。

ネタ――何を出すのか。何を出すべきなのか。
自作の小説を、というところまでは決まっているのだけれど、さて何を出そうか。
これまで書いたもののなかからチョイスすべきか。それとも、これからKDP用に書き下ろすか。

でもね、ほら、これって「熱」だから。
花粉症もいずれ治まるように、KDP熱もグダグダしていたら冷めちゃうかもしれない。
これから書くなんてまだるっこしいことしていたら、飽きてそれっきりになる可能性大だし、KDPのために書く小説なんてそうそう面白くはならないだろう。

だから、これまで書いたもののなかから選ぶということになるが、どんな基準で選べば良いのかということが次の問題だ。

KDPをやってみよう(1)

KDP――キンドルダイレクトパブリッシングだっけ?――をやってみよう、という話。その第1回め。
「序説」っちゅうの? 「まえがき」みたいなもんだな。

一昨年の暮れ、Amazonさんが「お安くするからどうですか」って言うので、Kindle Paperwhiteというのを購入してみた。

ページをめくらないと「本を読んだ」感がないんじゃないかと思っていたのだが、そんなことは全然なくて、むしろ紙の本の重さがないぶん通勤中の読書には楽。

へえ、こりゃいいや、と使っている。

「青空文庫」が読めるのも嬉しい。
『黒死館殺人事件』も『ドグラ・マグラ』も『魔都』も、あの薄っぺらな機械に入る。
永井荷風の日記も、古川ロッパの日記も読める。
半七も平次もタダで読めるんだからな。

夏にはKindle Unlimitedも始めた。
これは月に千円弱の料金で対象の本が読み放題になるというサービス。
『Newsweek』と『月刊ムー』が980円で読めるなら安いじゃん、と意識高い系オカルトマニアとしては大喜びで始めた。
ところが、契約したらすぐに『ムー』が読み放題からはずれてしまい、ちょっと悲しい次第となっている。

まあ、『週刊大衆』も読めるからコスパはいい。
意識が高いんだか低いんだかわからないけど、コスパはいい。
『論理哲学論考』からフランス書院まで読めるからコスパはいい。

それで、なんだかんだと本を漁っていたらぶつかるわけだ、KDPの本たちに。
これ、インディーズって言うと、カッコイイですかね。
玉石混淆なのは否めない。
でも、多くの石に混ざって玉はたしかに存在する。面白いものは面白い。
また、玉なのか石なのかよくわからないのもある。
万人が面白いとは言わないかもしれないけれど、自分のツボにははまっているなんて本があるわけ。

アメコミ誕生以前のパルプマガジン時代のマスクド・アンド・コスチュームド・ヒーローたち(ザ・シャドウとその追随者)の小説アンソロジーなんて誰が読むんだ?

国会図書館所蔵の1930年発行『東京名物食べある記』時事新報家庭部編なんて誰が喜ぶんだ?

もう本当に自分以外のどこに需要があるのかわからない本が、Amazonさんとこには存在するのですよ。

こういうのって、タイムリーに大量に売るというベストセラー商法の真逆だよね。

小さな酒蔵が独自のポリシーで個性的な酒を造る。美味しいと思ってくれる人だけ飲んでくれればいい、みたいのと一緒。

自費出版というと高いお金払って自分の小説なりエッセイなりを本の形にして、大きな本屋さんの誰も見向きもしない隅っこのコーナーに並べてもらったり、地元の図書館に寄贈してみたり、親戚や知り合いに配ったり――どうしても自己満足というイメージが拭えない。
出しはしたけど、どこにも伝わらないっていうね。

KDPはそれとはまた別のやり方なのだと思う。
この作家たちは、きっとどこかに面白がってくれる人がいるだろう、という期待のもとに出している。
伝わる可能性をとりあえず信じている。
そんなに費用もかからないようだしね。

というわけで、僕もインディーズ作家ってのをやってみよう、と思い立ったわけですよ。