
“Some Desperate Glory”の邦題が『宙(そら)の復讐者』なのはどうかという問題は置いておいて、面白く読める本ではあった。めちゃくちゃマチスモな軍事的共同体で育った女性主人公が自分の生まれ育った社会の欺瞞に気づき、自身の洗脳を解いて多様で共生的な世界を創り出す物語。邦題と宇宙戦艦が集結している表紙からはハード軍事SFかという印象を受けるが、中身はむしろスペースオペラ寄りの甘々なお話なので、ヒューゴー賞受賞という情報だけで読み始めた僕はだいぶびっくりした。
ネタバレになるので細かくは言わないが、メインのアイデアは夢オチに近い気がしなくもない。SFプロパーの読者に眉をひそめられる可能性はある。ただまあ「ヒューゴー賞取ってんだからさ、許してちょうだいよ」と言えば、「しゃーないか」ですんじゃうレベルではあるだろう。主人公が徐々に覚醒していく展開は最終部で一気に加速して胸のすく大団円を迎える。だから、物語を楽しめれば良し、という読者には十分満足のいく作品に仕上がっている。
個人的に引っかかったのは悪のリアリティである。リアリティのある悪と言い換えた方がいいかな。百五十億の人類が虐殺されようと何兆の星が滅亡しようと、読者にすぎない僕らはその悪を厭わざるをえないものとして受けとめることができない。悪がそこにあると理解はできる。だが、感じることはできない。結局のところ、悪を悪として実感できるのは、名もなき弱者を大量殺戮しようとする敵役にではなく、そのラスボスが名前のあるキャラクターに不同意性行為をしようとするときなのだ。これは読者側の問題でもあるだろうし、それ以上に物語というシステムの問題なのだろう。主人公が特権的に勝利したり、生き延びたり、虐められたり、不幸になったりする一方で、名すら与えられない者は偏った情報だけを付与されて――あるいはそれすら与えられずに背景化される。
問題はそんなシステムの上で、多様性を訴えることの正当性にある。小説が悪いのではない。物語とは初めから人に快楽を与えるための一個のシステムだった。小説は物語をより有効に機能させるために発達した媒体にすぎない。そこに組み込まれるものは他愛ない感想であれ複雑な思想であれその内容とは別に、甘くキャンディコーティングされて読者に届けられる。サドやセリーヌやウェルベックに心を動かされるのは彼らが正しいからではない。小説というシステムで読んでいるからだ。小説はどんなものでも特権化し、その「正しさ」を読者に押しつけてくる。
ずっと昔から感じていたことではあるのだけれど、小説世界そのものがファシズム的なのだ。無自覚に書かれているにせよ、そこに描かれている多様性も共生もまた、作者によって強制されるイデオロギーである。キャラクターは選挙しない。彼らには自由も独立もない。疑うことすら許されない。キャラクターが作者を糾弾するようなメタ構造を持った小説でさえ、それが作者のひとり芝居でしかないことは自明なのだ。となれば、クライマックスでカミングアウトする主人公というのはけっして開かれた存在ではない。
