KDPをやってみよう(2)

治ったと思っていたのは間違いだったようだ。
今年は久しぶりにひどい花粉症である。

まだ「花粉症」という言葉がない頃から春先にはくしゃみと鼻水が止まらなくて、耳鼻咽喉科に行けば「急性蓄膿症」と言われ、中学の教師には授業中にくしゃみをしてブチ切れられ、入試に行っても周囲をはばかって鼻がかめず苦しい思いをした。

花粉症の人間が公民権を得たのはついこの間というか、昔はこんなに花粉症の人はいなかった。

だからさ、僕は花粉症なんて本当は存在しなくて、僕のはあくまでも季節性の蓄膿症で、世間の皆さんのは集団ヒステリーなんじゃないかと疑っている。

さて、花粉症に苦しんではいるものの、KDP熱のほうはべつに冷めてはいない。
うちの kindle が呼んでいるのである。はるかなる kindle の呼び声、なのだよ。

電子出版はなにもKDPに限ったもんじゃないわけだが、やっぱりね、kindle を持っているんだもの、あえて楽天を選ぶ理由はないでしょ。
周囲を見回しても、電子書籍リーダーを持っている人は皆んな kindle なんだよね。kobo は本屋さんの店頭でしか見たことがない。
というわけで、KDP一択なのだけれど、まずはネタがなくちゃ始まらない。

ネタ――何を出すのか。何を出すべきなのか。
自作の小説を、というところまでは決まっているのだけれど、さて何を出そうか。
これまで書いたもののなかからチョイスすべきか。それとも、これからKDP用に書き下ろすか。

でもね、ほら、これって「熱」だから。
花粉症もいずれ治まるように、KDP熱もグダグダしていたら冷めちゃうかもしれない。
これから書くなんてまだるっこしいことしていたら、飽きてそれっきりになる可能性大だし、KDPのために書く小説なんてそうそう面白くはならないだろう。

だから、これまで書いたもののなかから選ぶということになるが、どんな基準で選べば良いのかということが次の問題だ。

KDPをやってみよう(1)

KDP――キンドルダイレクトパブリッシングだっけ?――をやってみよう、という話。その第1回め。
「序説」っちゅうの? 「まえがき」みたいなもんだな。

一昨年の暮れ、Amazonさんが「お安くするからどうですか」って言うので、Kindle Paperwhiteというのを購入してみた。

ページをめくらないと「本を読んだ」感がないんじゃないかと思っていたのだが、そんなことは全然なくて、むしろ紙の本の重さがないぶん通勤中の読書には楽。

へえ、こりゃいいや、と使っている。

「青空文庫」が読めるのも嬉しい。
『黒死館殺人事件』も『ドグラ・マグラ』も『魔都』も、あの薄っぺらな機械に入る。
永井荷風の日記も、古川ロッパの日記も読める。
半七も平次もタダで読めるんだからな。

夏にはKindle Unlimitedも始めた。
これは月に千円弱の料金で対象の本が読み放題になるというサービス。
『Newsweek』と『月刊ムー』が980円で読めるなら安いじゃん、と意識高い系オカルトマニアとしては大喜びで始めた。
ところが、契約したらすぐに『ムー』が読み放題からはずれてしまい、ちょっと悲しい次第となっている。

まあ、『週刊大衆』も読めるからコスパはいい。
意識が高いんだか低いんだかわからないけど、コスパはいい。
『論理哲学論考』からフランス書院まで読めるからコスパはいい。

それで、なんだかんだと本を漁っていたらぶつかるわけだ、KDPの本たちに。
これ、インディーズって言うと、カッコイイですかね。
玉石混淆なのは否めない。
でも、多くの石に混ざって玉はたしかに存在する。面白いものは面白い。
また、玉なのか石なのかよくわからないのもある。
万人が面白いとは言わないかもしれないけれど、自分のツボにははまっているなんて本があるわけ。

アメコミ誕生以前のパルプマガジン時代のマスクド・アンド・コスチュームド・ヒーローたち(ザ・シャドウとその追随者)の小説アンソロジーなんて誰が読むんだ?

国会図書館所蔵の1930年発行『東京名物食べある記』時事新報家庭部編なんて誰が喜ぶんだ?

もう本当に自分以外のどこに需要があるのかわからない本が、Amazonさんとこには存在するのですよ。

こういうのって、タイムリーに大量に売るというベストセラー商法の真逆だよね。

小さな酒蔵が独自のポリシーで個性的な酒を造る。美味しいと思ってくれる人だけ飲んでくれればいい、みたいのと一緒。

自費出版というと高いお金払って自分の小説なりエッセイなりを本の形にして、大きな本屋さんの誰も見向きもしない隅っこのコーナーに並べてもらったり、地元の図書館に寄贈してみたり、親戚や知り合いに配ったり――どうしても自己満足というイメージが拭えない。
出しはしたけど、どこにも伝わらないっていうね。

KDPはそれとはまた別のやり方なのだと思う。
この作家たちは、きっとどこかに面白がってくれる人がいるだろう、という期待のもとに出している。
伝わる可能性をとりあえず信じている。
そんなに費用もかからないようだしね。

というわけで、僕もインディーズ作家ってのをやってみよう、と思い立ったわけですよ。

息子がインフルエンザにかかった

息子がインフルエンザにかかったので、DJPに話がちがうとクレームを入れた。

担当者の話では、罹患したウイルスは組織が今年拡散させたものではなく、おそらく自然発生のものだろうとのこと。

漏出したA/Bとの関連を言うと、念のためマーカーを届けるとのことだった。

やはり、あの連中は信用できない。

『ライズ・オブ・シードラゴン 謎の鉄の爪』観た。

ツイ・ハーク監督のディー判事物の2作目。と言っても、アンディ・ラウ主演の1作目は見てないんだけどさ。

けっこう面白い話だった。ただ、海の怪物は余計な気がする。あれ、いない方が面白くないかな。

映像の美しさ、迫力を売りにしているのはたしかなので、海の怪物はこの映画のキモですらあるのだろうが、それでもなあ、ワザとっぽいというか、「パイレーツ・オブ・カリビアン」風のアクションシーンはそんなに盛り上がれない。

キャラは武則天が効いている。

それにしても、アンジェラ・ベイビーはきれいだ。

2作目がこれなら、1作目はもっと面白いんだろう。期待。

佐藤優「学生を戦地に送るには 田辺元『悪魔の京大講義』を読む」を読んでみた。

京都学派の泰斗田辺元が学生に「国のために死ぬ」ことの思想的根拠を与えるべく行った講義『歴史的現実』を、佐藤優が読み解いていく。

田辺は「歴史とは何か」を時間論から解き始め、今はない過去と未だない未来が現在と相互作用するところに見る。

それは絶対であると同時に自由であり、無限の中心を持つ1つの円として捉えられる。

また、相互作用する関係は個と種と類の概念にも敷延される。

種は個に先行し個を制約するが、個の否定が行き過ぎれば種は存続できなくなる。よって種は個の意志の集合的なものとなり、種の目的と個の目的は一致する。さらに種を超え出る個が他の種の個と相互作用し類を生成させる。個人は種族の中に生じ、種族は人類との相関により国家となる。

ここまでの論理に破綻はないと佐藤は見ている。しかし、田辺にはこの先に飛躍があり、それは「国のために死ぬ」ことに正当性を与えるためだという。

「個人は種族を媒介にしてその中に死ぬ事によって却て生きる。その限り個人がなし得る所は種族の為に死ぬ事である」

そして、無限の中心に喩えられた歴史や世界観は「歴史の終焉」へと統合され、個は与えられた目的の犠牲となることを強いられる。

「具体的に言えば歴史に於て個人が国家を通して人類的な立場に永遠なるものを建設すべく身を捧げる事が生死を超える事である。自ら進んで自由に死ぬ事によって死を超越する事の外に、死を超える道は考えられない」

これを詐欺とも洗脳とも言うことはできる。だが、論理の飛躍は田辺の過ちでしかない。

問題とすべきは個と種と類の相互作用の先に戦争を正当化する論理の構築は可能なのかということである。

残念ながら、それを否定できる根拠はない。むしろ、学生と言わず一般市民に銃を取らせることを根拠づける言説は絶対に存在するといえる。

と同時に戦争参加を拒否しうる論理も存在しうる。よって、現実における個の自由は、論理が順次展開され現実として生成されていく過程での「選択」として表現されることになる。

そして、個の限界は「選択」を過たせるかもしれず、あるいは巧まずして望ましい未来を選ばせることになるかもしれない。言い換えれば個の限界が未来の非決定性を保証しているということである。

 

田辺元について考えるべきもうひとつの点。

なぜ「死ぬ」ことを求めるのか。

ナチスドイツのように生存圏を確保するための戦いなら「死ぬ」ことを求めること自体矛盾である。

戦争の目的は「殺す」ことで「死ぬ」ことではあるまい。

これを武士道にも見られる日本的心性、美学というのならば、この国はよくよく戦争に向いていない国である。