劉 慈欣『三体』を読んで

話は1967年に始まる。日本ではグループサウンズがブームとなり、第2次佐藤内閣が発足し、高度経済成長期の真っ只中であるが、中国では、50年代の大躍進政策で失敗し国家主席を辞任していた毛沢東の権力奪還の手段として始まった文化大革命が、そのピークを迎えていた。

主要人物のひとり葉文潔の父親は理論物理学者で、反動的学術権威として紅衛兵たちに吊し上げられる。文潔の妹は過激な紅衛兵となって積極的に父親の罪を暴いていたのであり、同じ物理学者の母親はとうに自己批判しており、批判集会で夫を反革命分子として非難する。しかし、頑なに自己批判を拒んだ父親は、4人の少女たちにベルトで殴られて死亡する。その光景を目の当たりにしていた文潔は人類に深く絶望する。

――人類に絶望? そうなの? それは「人類」なの?

いやいや、それを突き詰めてはいけない。そして、天安門事件についてはまったく触れられていない(ただ、作中はっきり明記はされていないのだが、経過年数を数えていくと1989年に”あること”が起きる)。

2000年代の亡命中国作家たちは文革については語りにくいようなことを言っていたが、今はそれほどでもないのだろうか。六四天安門事件は依然としてタブーらしいが、それは禁じられているというだけではなくて、中国人に語る必要がなくなってしまったということもあるのではないかという気が最近している。

1986年に胡耀邦が百花斉放・百家争鳴と言ってから中国でもマルクス以外の西洋哲学の「批判的」受容ということがあったようで、ニューアカブームの余熱冷めやらぬ日本の大学で、僕はホワイトヘッドとかフォイエルバッハといった名が中国語で書かれている論文を読まされたりしていた。それで中国の民主化というと、僕はどうしても「大学でホワイトヘッドなんかの研究をしている人がいる」ってことだと考えてしまう。だから、天安門のニュースを見たときに頭に浮かんだのは、文革よろしくホワイトヘッドの研究者が三角帽子を被せられて首から「私は懷海德を読みました」という板っきれを提げて小突かれている姿だった。

つまり、日本人の僕でさえそんなイメージを思い浮かべたのだから、『三体』の冒頭というのは文革の実態というよりもそのステロタイプでしかないとも考えられるのだが、まあ、それはそれとして、あの89年にそのまま中国が民主化していたらどうなのよ、という疑問がこないだからずっと気になっているところなのだ。

僕らはあのとき中国の民主化を「たぶん」歓迎していた。でも、それって阿呆らしい優越感の反映だったかもしれない。僕らは彼らを「無知で貧しい10億の民」だと考え、下に見ていたのではないか。資本主義陣営に入ってきた彼らを馬鹿にしてあごで使うつもりだったのではないか。少なくとも当時の高度資本主義国家のわが国が東南アジア諸国とどういう関係を築いていたかを思い出せば、あながちこの想像が的外れでもないことは同意してもらえるんじゃないかと思う。

この日本とアジアの国の関係については、84年の「吉本埴谷コムデギャルソン論争」も僕は気にかかるのだ。この笑ってしまうような論争は、あの「an an」に吉本隆明がコムデギャルソンの服を着せられて載ったことに対して、埴谷雄高が「それを見たらタイの青年は悪魔と思うだろう」とイチャモンをつけて始まった論争だが、このときの吉本の反論は「先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子賃労働者は、こんなファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど、豊かになった」のだというものだった。もちろん、日本の賃労働者が「豊かになった」前提には「タイ」の賃労働者の労働があり、その賃金は日本の労働者と比較して相対的に低い。この同時的差異に立脚していたのが埴谷だとすれば、吉本はかつての「日本」の労働者の状況に「タイ」の労働者が到達したのだという通時的運動を見ていたのだと思う。

この「タイ」のところに「中国」も入れていたというのが当時の日本であり世界だ。それは民主化の如何を問わない。あれから30年経って、さて現在あの国に暮らしているのは「賢くて金持ちの13億人」である。GDPはとっくのとうに日本を抜いて世界2位。民主化しなかったのにこの「ありさま」だ。

民主化していたらいったいどうなっていたのだろう? 変わっていただろうか。変わっていたとすればどう変わっていたのだ? 現在のタイやフィリピンと同じ立ち位置であると想像してみよう。現在の中国の人たちはそれを良しとするだろうか。

間違いないのは、この30年で中国人が絶対的不可逆的に「幸福」になったということだ。中級ないし下級の女子賃労働者がファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど豊かになったという事実だ。日本人が「天安門」なんて口にしなくても生きていけるのと同様、中国人も「天安門」をネットで検索する必要なんてないのだ。言い換えればそれは「歴史」になってしまったのだ。(ああ、ようやく『三体』に戻ってこられた。読んだ人にはわかるよね?)。

だから、天安門を問題にしたり、2019年香港民主化デモを考えるとき、僕らは何を守ろう/獲得しようとしているのかを、あらためて自らに問い直すべきなのだ。それは「自由」なのか。その「自由」とはどんなものなのか。「公共」と「自由」の線引きをどこでするのか。それは自分が決めることなのか。それとも誰かが決めることなのか(「自由」なのに?)。

有限な個人はより長期的に存在する社会に優先しうるか。時間の長さが問題なら、普遍なる神には従うべきではないのか。個が無力であるときは集合体でしか語れないのか。

『三体』の終わりに蝗が登場するのと『高い城の男』の『イナゴ身重く横たわる』には何の関連もないのだろうが、ふと読み返してみたくなって本棚を探しても見当たらない。段ボールに入れてしまってしまったらしい。段ボールの山をひっくり返すのもアレなので、思わずkindle本で購入してしまった僕なのだ。

天皇杯

サッカーの天皇杯と競馬の天皇賞をいまだに言い間違えるのだけれど、

最近はサッカーも競馬も疎くなって、さすがに今年はW杯イヤーだったから日本代表戦くらいは見ていたのだが、

競馬の方は春も秋もどの馬が勝ったのか知らないし、

Jリーグの方はとうとうまともに見た試合が1試合もなかった。

ニュースで順位を確かめるなら、totoも買えばいいじゃん、と思うのだが、結局BIGすら買わずじまい。

そんなこんなで天皇杯の決勝カードが決まったという報せである。

早いなあ、と思ったら、今大会はアジア杯の影響で決勝は元旦ではなく、9日に前倒しだそうな。

えー! である。

もう十年以上、元旦は実家で天皇杯を見る、というのが恒例になっていた。

僕は元旦、実家で何をすればいいのだろう。八十過ぎの両親と話すことなんてもう、そうそうないのだよ。

2014年大会も年内決勝だったということだが、あれ、4年前ってそうだっけ? とまるで記憶にない。

参ったなあ。

アジア杯が1月にあるから代表チームの休養期間を確保するためらしい。

つまり、レッズの槙野と、ベガルタのシュミット・ダニエルのせいということである。

責任取れよな、おまえら――である。

ゲートウェイねえ……

田町と品川の間に高輪ゲートウェイって駅ができるそうで……。

山手線では71年以来の新駅ということだけれども、皆んな「高輪ゲートウェイ」なんて呼ばないのは間違いのないところだ。

きっと「ゲートウェイ」とか「高ゲー」とか呼ぶんだよ。

僕は「ゲイトウェイ」っていうと、古いんだけど、フレデリック・ポールのこれ。どこか知らない場所に繋がっているイメージがあって、そんな駅で降りたら今世紀中には帰ってこられないような気がする。

 

生涯最悪の……

私は、自他ともに認める無類の磯辺揚げ好きだが、先週、半世紀にも及ぶこの人生において最も不味い磯辺揚げを口にした。

磯辺揚げの主材料は、チクワ、小麦粉、青のり、油。

これにバリエーションで何か加わるとしてもだ、磯辺揚げの味の振り幅なんてそう大きくはない。

予想を超える美味さもないかわりに不味さもない。のり弁の謎の白身フライの横に、なにげなく当たり前のように存在する。きわめて存在感の薄い食い物。

言い換えれば、磯辺揚げなんてものは不味く作ろうにも限度がある、ということだ。

その限界を易々と越える料理人については、これはこれでひとつの才能かな、と感心すると同時に、私に何か恨みでもあるのか、とふつふつと怒りが沸いてきたのだった。

まず、チクワが輪のままである。縦に切断されていない。まあ、これは流儀みたいなものだから、縦に切らなくたっていいのだが、それでも許されるのは細いチクワの場合だけで、おでんに入れるようなチクワでは駄目だ。これにコロモがつくんだぜ。磯辺揚げに大口開けてかぶりつくなんて聞いたことない。

そして、コロモだが、どうしてチクワの半分までしかついていないのか。おしゃれのつもりなのか、手抜きなのか、そこが今ひとつ判然としないところである。コロモのついていないところは、ただのチクワの素揚げでしかない。チクワの素揚げはチクワを揚げた味がするだけである。

コロモのついている方も、このコロモに問題があって、磯辺揚げの磯辺揚げたる根拠であるところの青のりが異常に少ない。水溶き小麦粉の中へ間違って青のりが落ちてしまったのかというぐらいに少ない。これでは磯辺揚げではなくチクワの天ぷらである。

だが、これらの諸問題を差し置いて何より問題なのは、コロモが固いということである。齧るという表現がぴったりするくらいに固い。元々固かったのが冷えて余計に固くなっている。もはや磯辺揚げのコロモではなく、磯辺揚げの殻である。いつからチクワは甲殻類になったのかという体である。

全国にはまだまだこうした恵まれない磯辺揚げが存在するのだろう。とはいえ、磯辺揚げ救済の声を上げるつもりはない。

しょせん磯辺揚げだからね。

KDPをやってみよう(4)

とはいえ、とはいえ、である。
無料で読ませていた物を有料化するというのも随分と態度のデカい話にはちがいない。
さすがにそれだけではおカネを取るのは申し訳ない。というわけで、もう1編追加することにした。
字数の面からも、1冊の本にするにはもう40,000字くらい欲しいところではあった。

で、急遽、中編「銷魂の瞳は宝玉の碧」を書き下ろした。
主人公キロクが宝玉のなかにある異世界に閉じ込められてしまうという話だ。

追加の小説を書く一方で、表紙の絵をどうするかも考えた。
やっぱり小説は表紙が大切。自分自身の経験でも、ジャケ買いした小説やCDはゴマンとあるわけで、初めての作家に手を出すときって表紙の力は大きいと思う。

だから、素人の僕が適当に作ってお茶を濁すつもりはまったくなかった。
能力のある人にきちんとおカネを払ってお願いする――これだけはKDPを思いついたときから決めていたことだった。

だがしかし、これもテンプレ話と同じで、万人受けを狙うつもりはさらさらない。
電子書籍化するこの作品には、僕自身アニメ絵っぽいイメージがないのだ。
しかも、暗い。全然、明るいイメージがない。
地下牢みたいなイメージで書いてるんだからしょうがない。

ダークファンタジーらしい絵を描いてもらいたい。それで、前々から気に入っていた絵師 L/M MUFFET さんに依頼した。

主人公に「死と乙女」が絡んでいるような構図で、とややこしいお願いをしてしまったのだった。

KDPをやってみよう(3)

KDPをやってみることにはしたものの、何を電子書籍化するかというのが悩みどころ。

「小説家になろう」とちがって、読む方はタダじゃないからね。
値段をいくらにするかということもあるけれど、100円だっておカネを取るならそれなりの内容は必要だ。

「小説家になろう」を軽く見ているわけじゃない。
ただ、有料であることで読み手に犠牲を強いているのはまちがいない。 東京との最低時給がいまは958円だから、100円の小説を読むということは、6分15秒くらいの労働と交換することになる。

ねえ、あなた、これから6分間、封筒貼りの内職をしろって言われて、その代償が僕の小説なんだよ。
どうするよ?
僕としては最低限、あなたに殴られないだけの作品を提供するほかないわけで。

質の問題は、じつはもうひとつある。
「小説家になろう」のテンプレってどうなのかって話。
「小説家になろう」のなかで沢山の人に読んでもらい、さらには書籍化を狙おうとするなら、たしかにテンプレというのは重要だと思う。

テンプレは何も「小説家になろう」に限られる話ではないのだ。
たとえばアメリカの戦前のパルプ雑誌「ブラックマスク」なんかを見ればいい。
そこに載っているハードボイルド小説は、明らかに読者が求めている「テンプレ」に沿って書かれている。
いわゆるパルプ作家がオリジナリティなんか無視して、タフガイ探偵とギャングとブロンド美女の物語を量産していたわけだ。

売れる物を作るには買い手の需要に合わせなくちゃ――というだけのこと。
何のまちがいもない。非難されるいわれもない。

ただ、こちらはインディーズなのですよ。
地方の造り酒屋さんみたいなもんのわけですよ。

売れるに越したことはないけど、ドーンと売れることなんて期待していない。

自分の書きたいことを書きたいように書く。
あとは読む側に任せるのみ。
面白そうだと思うなら買ってくれるだろうし、読んで好みに合うなら次作も購入してくれるだろう。

それでいいんじゃないかと思う。

というわけで「小説家になろう」に3編投稿した『堕剣士キロク』というファンタジー物の中短編シリーズを電子書籍に上げることにした。

皆が面白いとは言わないだろうが、200人にひとりくらいは楽しんでくれるんじゃないか。楽しんでくれるといいなあ……である。

KDPをやってみよう(2)

治ったと思っていたのは間違いだったようだ。
今年は久しぶりにひどい花粉症である。

まだ「花粉症」という言葉がない頃から春先にはくしゃみと鼻水が止まらなくて、耳鼻咽喉科に行けば「急性蓄膿症」と言われ、中学の教師には授業中にくしゃみをしてブチ切れられ、入試に行っても周囲をはばかって鼻がかめず苦しい思いをした。

花粉症の人間が公民権を得たのはついこの間というか、昔はこんなに花粉症の人はいなかった。

だからさ、僕は花粉症なんて本当は存在しなくて、僕のはあくまでも季節性の蓄膿症で、世間の皆さんのは集団ヒステリーなんじゃないかと疑っている。

さて、花粉症に苦しんではいるものの、KDP熱のほうはべつに冷めてはいない。
うちの kindle が呼んでいるのである。はるかなる kindle の呼び声、なのだよ。

電子出版はなにもKDPに限ったもんじゃないわけだが、やっぱりね、kindle を持っているんだもの、あえて楽天を選ぶ理由はないでしょ。
周囲を見回しても、電子書籍リーダーを持っている人は皆んな kindle なんだよね。kobo は本屋さんの店頭でしか見たことがない。
というわけで、KDP一択なのだけれど、まずはネタがなくちゃ始まらない。

ネタ――何を出すのか。何を出すべきなのか。
自作の小説を、というところまでは決まっているのだけれど、さて何を出そうか。
これまで書いたもののなかからチョイスすべきか。それとも、これからKDP用に書き下ろすか。

でもね、ほら、これって「熱」だから。
花粉症もいずれ治まるように、KDP熱もグダグダしていたら冷めちゃうかもしれない。
これから書くなんてまだるっこしいことしていたら、飽きてそれっきりになる可能性大だし、KDPのために書く小説なんてそうそう面白くはならないだろう。

だから、これまで書いたもののなかから選ぶということになるが、どんな基準で選べば良いのかということが次の問題だ。

KDPをやってみよう(1)

KDP――キンドルダイレクトパブリッシングだっけ?――をやってみよう、という話。その第1回め。
「序説」っちゅうの? 「まえがき」みたいなもんだな。

一昨年の暮れ、Amazonさんが「お安くするからどうですか」って言うので、Kindle Paperwhiteというのを購入してみた。

ページをめくらないと「本を読んだ」感がないんじゃないかと思っていたのだが、そんなことは全然なくて、むしろ紙の本の重さがないぶん通勤中の読書には楽。

へえ、こりゃいいや、と使っている。

「青空文庫」が読めるのも嬉しい。
『黒死館殺人事件』も『ドグラ・マグラ』も『魔都』も、あの薄っぺらな機械に入る。
永井荷風の日記も、古川ロッパの日記も読める。
半七も平次もタダで読めるんだからな。

夏にはKindle Unlimitedも始めた。
これは月に千円弱の料金で対象の本が読み放題になるというサービス。
『Newsweek』と『月刊ムー』が980円で読めるなら安いじゃん、と意識高い系オカルトマニアとしては大喜びで始めた。
ところが、契約したらすぐに『ムー』が読み放題からはずれてしまい、ちょっと悲しい次第となっている。

まあ、『週刊大衆』も読めるからコスパはいい。
意識が高いんだか低いんだかわからないけど、コスパはいい。
『論理哲学論考』からフランス書院まで読めるからコスパはいい。

それで、なんだかんだと本を漁っていたらぶつかるわけだ、KDPの本たちに。
これ、インディーズって言うと、カッコイイですかね。
玉石混淆なのは否めない。
でも、多くの石に混ざって玉はたしかに存在する。面白いものは面白い。
また、玉なのか石なのかよくわからないのもある。
万人が面白いとは言わないかもしれないけれど、自分のツボにははまっているなんて本があるわけ。

アメコミ誕生以前のパルプマガジン時代のマスクド・アンド・コスチュームド・ヒーローたち(ザ・シャドウとその追随者)の小説アンソロジーなんて誰が読むんだ?

国会図書館所蔵の1930年発行『東京名物食べある記』時事新報家庭部編なんて誰が喜ぶんだ?

もう本当に自分以外のどこに需要があるのかわからない本が、Amazonさんとこには存在するのですよ。

こういうのって、タイムリーに大量に売るというベストセラー商法の真逆だよね。

小さな酒蔵が独自のポリシーで個性的な酒を造る。美味しいと思ってくれる人だけ飲んでくれればいい、みたいのと一緒。

自費出版というと高いお金払って自分の小説なりエッセイなりを本の形にして、大きな本屋さんの誰も見向きもしない隅っこのコーナーに並べてもらったり、地元の図書館に寄贈してみたり、親戚や知り合いに配ったり――どうしても自己満足というイメージが拭えない。
出しはしたけど、どこにも伝わらないっていうね。

KDPはそれとはまた別のやり方なのだと思う。
この作家たちは、きっとどこかに面白がってくれる人がいるだろう、という期待のもとに出している。
伝わる可能性をとりあえず信じている。
そんなに費用もかからないようだしね。

というわけで、僕もインディーズ作家ってのをやってみよう、と思い立ったわけですよ。

ストレスと時間をお金に換えること

今日は、日本人は働くことを「ストレスと時間をお金に換えること」と考えている、という話を聞いた。

また、自分の会社のことを「好きだ」と答える人は40%しかいない、という話である。

ふむ、おれは典型的日本人だな。

「働いたら負け」だとは思わないが、「働かなくてすむなら勝ち」だとは思っている。

どうして日本人はこうなってしまったのか、という問いの立て方はきっと間違っているだろう。

日本人というのは元々こうなんじゃないのか。

よく、日本人は時間に正確だって言うけど、そんなの明治維新以降の話で、それまでの日本人は外国人から時間にルーズだって散々言われていた。

時間に厳しくなったのは明治政府による強制であって、それ以来ずっと日本人はストレスに感じているんじゃないか。

今年は明治維新から150年です、という話も今日は出ていた。

つまり、僕らは本質では怠け者なのに、働かないと生きていけないという強迫観念にかられて1世紀半も生きてきたということだ。

そういう無理は社会的病理となってどこかに出てくるにちがいなく、ニートなんてのはむしろ健全な先祖返りでしかないのかもしれない。

Twitterを利用して作品を宣伝することに効果はあるか?

「小説家になろう」に投稿している自作品をTwitterで宣伝している。

何もしていなかったときより、pvもユニークも増えているし、部分別の数にも違いが見られる。

そりゃ、泡沫作家たる綾瀬文蔵ですから、増加したってたかが知れているのだが、今日何げなく読んでいた「なろう」のエッセイに、Twitterを利用して宣伝をしても効果はないというようなことが書かれていた。

その根拠というのが、ツイートに対してどのくらいのリアクションがあったのかということは「アクテビティ機能」を通じて確認できるでしょ、ということだった。

ツイートのエンゲージメントにおいて、「ツイート内のリンクが何回クリックされたか」をインプレッションの総数と比較すれば微々たるものにすぎないというのである。

たしかにそうなのだ。

いつもエンゲージメントを見て、なんだ、これっぽっちしか読みに行ってくれてないんだ、とは思っていたのである。

が、他人から言われると素直にうなずけない天邪鬼なので、ちょっと考えてみた。

今、Twitterで綾瀬文蔵のプロフィール下に固定されているツイートのインプレッションは4,289回、ツイート内のリンクをクリックした回数は3回である。

なんと、0.07%! 少な!

レスポンス率の高いツイートでも2,296回に対して8回だった。およそ0.3%である。一般的な感覚としてとても多いとは言えない数値だ。

が、しかし、だ。

これを少ないと言ってしまうのは、仕事でDMを打ったり、折込チラシを入れたりしたことがないからだね。

折込チラシの反響目安は、0.01~0.3%程度と言われている。つまり、チラシ10,000枚で1件から30件なのだよ。

たかが1%だって夢みたいな数字なんだ。1%もレスポンスが期待できるのなら、誰も広告に悩んだりはしない。

でも、「なろう」の小説なんてタダじゃん、という反論はあるだろう。タダなんだから、もっと反応があってもいいはずだ、ということだね。

ごもっともではあるのだけれど、タダでも「時間」は消費するのだということを考慮に入れてほしい。読む人は自分の時間を作者に提供しているのだと言ってもいい。

読む人は自分の時間と作品を天秤にかけて見合うかどうか判断しているのであって、決してノーリスクの選択なんかではない。

しかも、チラシを数千枚作って新聞に折り込む費用を考えてみてほしい。Twitterはたかが140字、しかも発信するのはタダなんだぜ。

0.001%でもレスポンスがあれば十分ではないですか。世の中そんなに甘いものではないのです。